このページをお読みになることによって 何ら害も不都合も起こりませんので、ご安心を! ただし、途中で発作を起こされても一切関知しません! ★特に"この色の字"にご注意! ・・・今では毎日インターネットをするのは、毎日ご飯を食べるのと同じように全く生活の一部になってしまっている.たまに、PCのトラブルや、自分のミスでPCを使えなくなったり、インターネットができなくなると、夕食抜きよりつらい. そもそも事の始まりは何だったんだろうと、思い起こしてみると、本当に偶然というか、まさに 「未知との遭遇」 だった.・・・ 世の中が何でも電化、自動化されると、便利になったなぁという感慨はあっても、自分との関係はきわめて希薄にしか感じられず、自分自身はきわめてアナログ人間だと思い込んでいた. 駅の自動改札や切符の自販機、銀行や郵便局のATM、家電に組み込まれたマイコン、それと知らずに使っている物より、少しはマイコンらしいのは、ビデオのセットや、せいぜいワープロぐらいだった. パソコンという機械はしょっちゅう目にするし、使っている人も増えたとはいえ、自分には全く無縁の物と思っているから興味もなかった.ワープロを使っているだけで、十分便利だと思っていた. 銀行のATMは今でも嫌いで、必ずカウンターで応対してもらう. ところが1996年の春に思いがけず、義弟からインターネット関係の本の翻訳を頼まれた.まったくの門外漢にそんなことができるわけがないと断ったのだが、初心者向けの本だから、初心者が訳す方がいいという.わかっている人は、初心者の気持ちや疑問点がわからないのだ、と嬉しいような嬉しくないような説得をされて、引き受けることになった. いまだから明かすが、 翻訳者の条件は「パソコンユーザーであること、インターネットをしていること」 だったのだ! しかし、さすがにまったく何も知らないで訳すわけにいかないし、現実そんなことは不可能なので、義弟による初心者講習を受けることになった. 義弟はソフト関係の仕事をしている人で、ずぶの素人とのギャップは天と地ほどあり、最初はぜんぜん話が噛み合わない. 几帳面な人だから、ものすごく丁寧に教えてくれるのだが、 丁寧で詳しいほど初心者にはちんぷんかんぷんだ という、最たる矛盾に苦しんだ.最初のうちは出てくる単語の一つ一つがわからなくて、ちっとも進まなかったが、そのうち訳しながら自分の勉強にもなり、相乗効果で面白くなって来た. でも、落とし穴はあちこちにある.「homepage」という言葉にいろいろな意味があったり、「motherboard」 が何かわからなかったり、「bug」 とか 「memory」 という実体のない物の理解に苦しんだこともあった. 翻訳の方が優先事項なので、自分のパソコン学習は後回し 、という変なことになってしまったが、ともかく最低限の知識と頼りになる助っ人を得て、無事に仕事を終えることができた. その後、あちこちの家電店に行って下見をし、パンフレットをいっぱいもらってきて機種選びに悩み、最後は何でもいいやと、「えいっ」とばかりに決めたのが、 IBMのAptiva.決め手はキーボードのタッチ という、何ともいい加減な買い物だった. 我が家にパソコンが運び込まれたのは、1996年10月9日.今なら信じられないことだが、E−mailに成功したのは、何と11月5日.実に一月かかっている.その間、当時していた在宅の仕事の締め切りに追われて、パソコンどころではなかったのは事実だが、何日かはパソコンの箱を睨んで過ごし、開けて見ても、やたらにたくさんのマニュアルが入っているのに目をみはって、また箱のふたをしたり・・・. 最初に電源を入れるのも怖くて、やっぱり助っ人の世話になった.まず、パソコンの中がどうなっているかを一通り説明してもらったが、マイコンピュータだの、コントロールパネルなんていうのはぜんぜんわからない.とにかく 自分のフォルダ を作ってそこだけはいじれるようになる.次は メールの送受信 .これができると、何だか突破口があいたような気分になった. このころ、天の采配というかタイミングよく、仕事の受け渡しにメールを使えるかという話が出て来た.せっかく覚えた物を使わない手はないと、さっそくメールで大きなファイルの受け渡しを始めた.早々にメールを取り入れたのは、同じ仕事仲間の間でも、多分1,2の速さだったと思う. また、メールで受け渡しを始めると同時に、仕事自体もパソコンに乗り換えた. ・・・それまでは、ワープロで作った原稿を紙とフロッピーにして、郵便で受け渡ししていたので、時間のロスがはなはだしかった. 仕事をもらう時は、送りましたという電話から1日か2日経たないと受け取れない.納品する時も、宛先はバスを使ってもほんの30分の所なのに、締め切り前日の夕方までには、速達で出さないと間に合わない. それでも郵便局の手際の悪さで届かなかったり、行方不明になったりと何度もトラブルがあった. 郵便局とけんかして 捜してもらったり、結局は間に合わなくて、会社まで届けたこともあった.・・・ ・・・仕事のやり方もパソコン導入以前は、紙で送られてきたテキストを前において、ワープロで作った専門用語のユーザー辞書をプリントアウトして横に置き、ワープロで原稿を書いていく. 机の上はワープロを中心に、テキストや何冊もの厚い辞書ファイルや本物の辞書が散乱して、最後には原稿をプリントアウトするから、 部屋中紙だらけ だった.それに、作業中は文字列のコピーや削除、ファイルの管理や保存の仕方などなかなか面倒な作業だった.・・・ それをパソコンにすると、目から鱗の落ちる思いというのを実感した. メールで送られてきたテキストと、いくつもの自作のユーザー辞書を全部デスクトップに開いておいて、原稿ファイルを作りながら参照することができる.あっちやこっちのファイルから、一発でコピーできるし、保存も一瞬で終わる.もちろん納品もメールで一瞬. メールによる受け渡しと同時に、仕事自体の能率も、まるで魔法のように、比較にならないぐらいあがり、お陰で収入の方も上向きになって パソコンさまさま・・・仕事の相棒 といってもいいぐらい. 仕事を送ったという電話をもらってすぐパソコンを起動しメールを見ると、既に入っている.できた原稿は添付ファイルにして送信してから、送信済みの電話を入れるとお互いにタイムロス・ゼロで、どんどん仕事がはかどり、最高の環境になった. 連絡事項もメールで入れておくと、書いた物が送られてくるので、電話で聞き取りにくい言葉のやり取りにいらいらすることもない. そうこうする間には、ファイルの欠損や、プロバイダのトラブル、原因不明のトラブルなど、いろいろ経験して、メールはかなりうまくできるようになって来た.まさかのトラブルを想定して、プロバイダも2ヶ所と契約した. 思い切ってパソコンを導入して、仕事がはかどり出すと、貯金通帳を眺めるのを楽しみにしながら何ヶ月か過ぎていった。 文字通りたくさんのウィンドウを画面に開き、ウィンドウズとメールを活用して仕事をしていたが、幸運というのはなかなか長続きしないようで、会社の事情で仕事がなくなりそうになってきた. そのころ、鎌倉市の広報にホームページ(HP)作成講座開講のお知らせが載る. HPというのは見るだけで、自分のページを作るなんてだいそれた事は考えていなかったが、講習を受けたらもう少し詳しくパソコンのことが分かるかなという、軽い気持で申し込む. 2枚か3枚書いたハガキのうち、 亭主の名前のハガキが当選。代理受講 をする! 1997年9月26日の土曜日、いよいよ講習会当日.わからない単語がいっぱい出てくるが、 やさしそうな講師のおじさん の言う通りにしていくと、何とパソコンの画面が自分の思い通りになってくる. これは面白そう、でも難しそう、というのが最初の印象だった. たった一回の講習でHPがわかり、作れるわけもないのに、2回目は仕事の都合で欠席.後から頂いたフロッピーを見てもテーブルのタグは複雑でじゅ文のよう・・・後は受講生で作ったサークルだけが頼みの綱となった. それから何度か講習会をしたり、グループで勉強したりして、自分たちのHPの立ち上げ日を設定したのだが、実際の作成の方がなかなか進まず、立ち上げ日は延びに延びて、最終的に翌年1998年の10月1日に決まった. いよいよ本腰を入れてHP作成にかからないといけなくなって来たころ、これまたタイミングよく(!?)ついに仕事がなくなった. 残ったのはパソコンにはまってしまったかぼちゃと、振込みのなくなった貯金通帳だけ・・・ 肝心のHPは、締め切り間際までコンテンツが決まらず、四苦八苦してなんとか形だけ整える.HPを立ち上げるということは、 世界中に自分のページを公開する ということで、わくわくどきどきしながらアップする.といってもFTPは熟練者にお願いしたので、フロッピーを渡しただけだが・・・.その後、FTPソフトの操作を覚えてからは、現実に自分で好きな時に更新をかける.これで、一応曲がりなりにも自分のページを管理することができるようになったわけだ. 締め切り日にあわせて急きょ作ったページは、いろいろ手を入れたいところだらけで、その後はいつもHPのことが頭を離れないという、自分でも信じられないことになってしまった. 仲間の上級者に教えてもらったり、気に入ったページのソースを覗いて真似したり、素敵な画像をいただいてきたり、HP作成関連の本を何冊も買ってきて試してみたり・・・少しずつ進歩(?)して、今では最初のページとは似ても似つかぬ物になってきた.毎回新しい試みをしてみたくて、 JavaScriptやsStyleSheet などを恐る恐る使ってみたり、内容を徐々に増やしていくのが、最大の楽しみになってくる. これでわたしのネットライフも行き着く所まで来たかと、というよりこれでキャパシティいっぱいかと思われたころ、 更なる未知との遭遇 が待っていた. パソコンの中身というのは、わたしにとっては、せいぜいエクスプローラで見える範囲ぐらいだった.ところが、紫陽花倶楽部というパソコンに詳しい人のサークルにどういうわけか紛れ込んでみると、 パソコンの本体を開けて見たり、その中身を出したり入れたり、後ろに付いているケーブルを挿したり抜いたり、メモリやハードディスクを追加したりCPUまで交換するという、まるで信じられない世界が展開 していた.これが1999年の年末に始まり、2000年の今にいたっている. 最初は、話題になる言葉の何分の一も理解できなくてかなり落ち込んでいた.最近は開き直って、 的外れの質問 を恐れも臆面もなくどんどん繰り出して上級者をけむに巻いたり、困らせたりしているようだ.考えようによっては、そうやって笑いをとることで、 潤滑剤の役目 を果たしているんだ、と訳の分からない納得をしている. こうして思い返してみると、ほぼ一年ごとに新たな展開が起きている. 1996年10月パソコン購入 1997年9月HP作成講座受講 1998年10月HP立ち上げ 1999年12月紫陽花倶楽部発足 さてこの調子で行くと、2000年の秋には、また何か起こりそう・・・ やっぱりありました、続々の展開が・・・(^ ^;)
さてさてこの先はどうなりますことやら・・・ やっぱりありました、さらなる展開が・・・(^ ^;)
やっぱりありました、さらなる展開が・・・(^ ^;)
やっぱりありました、さらなる展開が・・・(^ ^;)
やっぱりありました、さらなる展開が・・・(^ ^;)
さてさてこの先はどうなりますことやら・・・ |
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